香水の瓶をあけて初めて、私は香りが逃げてしまったことに気づいた。オパール色の液体はそのまま残っているのに、まったく何の香りもしない。私は愕然とした。もちろん、そのままにしておくつもりはなかった。その香水を手に入れるために、私は大変な犠牲を払ったのだ。すぐに探索を開始する。幸運なことに、最初の重要な情報は簡単に手に入った。香りは私のアパートの窓から逃げ出し、ベランダ沿いに隣の部屋に入り、クローゼットから女物の服を盗み出していた。盗まれたのは赤いワンピースで、香りがそれを着て逃げたのは間違いなかった。私はその手がかりをたよりに香りのあとを追った。タクシーに乗り電車に乗り、東京中を駆けずり回った。そうやって私はひとつひとつ、彼女の残した痕跡を拾い集めていくことになった。

 ある時、香りは赤坂のショットバーにいた。マルガリータを飲み、オリーブの実をつまみ、ベージュのシャツを着た若い男と一緒だったという。サングラスをかけたバーテンダーが、私にそう耳打ちしたのだ。二人は肩を寄せ合い、互いの耳元で甘い言葉を囁き合いながら、まるで映画の中の恋人同士のように見えたという。すぐに私はベージュのシャツの男に会いにいった。ハンサムだが、どこか疲れたような顔をした三十ぐらいの男だった。彼が言うには、バーを出たあと女とホテルに行ったが、部屋に入って華奢な体を抱きしめた途端、女は笑い声とともに窓から外へ漂い流れて消えてしまった。またある時、香りはイタリア人たちが集まる老舗のレストランにいた。アコーディオンの音が鳴り響き、遠い故郷の思い出話に花が咲き、料理人たちはみんな赤ら顔をしている。ウェイターが言うには、月に一度の大食い競争の夕べ、その赤いワンピースの女は現れた。ほっそりした体でパスタを十人前平らげ、並みいる大食漢達の顔色をなからしめ、豪華なトロフィーを獲得した。その美しく可憐な女の顔を人々ははっきりと覚えていた。しかし女はトロフィーを手にした途端、風に乗って天井の方へ舞い上がり、笑い声を響かせてそのまま姿を消してしまった。

 また別の時には、ジャズクラブに歌手として雇われていた。目に染みるようなスポットライトが彼女を照らし、煙草の煙を透かして見る彼女はぼんやりと滲む幻のようだった。物憂げなその頬の輪郭と首すじの白さを、人々は覚えていた。そしてその胸をかきむしるセピア色の歌声も、遠い水平線に投げかけられた虹のようなまなざしも。赤いワンピースの女は一週間続けてビリー・ホリデイのレパートリーばかりを歌い、七日目の夜、最後のヴィブラートの響きがまだ消えないうちに姿が見えなくなった。スポットライトがマイクスタンドだけを照らし、後にはただ、柑橘系の柔らかな香りだけが漂っている。

 そんな風にして、香りはある時はサーカス小屋、ある時は夜の博物館、ある時は湖のほとりに建つホテルに姿を現し、そして消えていった。ある時はオープンカフェ、ある時は水族館、ある時は白樺の森、ある時は教会の尖塔、そしてまたある時は場末のプールバー。私が駆けつけるのはいつもその姿がどこへともなく消え去った直後だった。絶望が私を捉えた。私にはどうしても彼女と再びめぐり合うことができないように思われた。しかし私は確かに一度、彼女を所有していたのだ。彼女はその時、瓶の中にオパール色の液体として閉じ込められていた。そう考えて私はハッとした。彼女は瓶の中にいた頃のことを決して忘れることができないに違いない。人は誰しも自分自身とその過去から逃れることは出来ないが、それは香りであっても同じことだ。

 その日から私は香水を買った店に張り込んだ。何日たったかは覚えていないが、案の定、香りはそこへやってきた。目立たないように人通りが多い時間を選び、赤いワンピースを着て、明るい光に照らされたショーウインドウの中の香水の瓶をじっと眺めている。その目には名状しがたいなつかしさの色が浮かんでいた。この機を逃すわけにはいかない。私は飛び出していって彼女を捕えた。空気に溶け込んで逃げられないように頭からビニールをかぶせ、その口をすばやく紐でしばった。そしてバタバタ暴れる香りを小脇にかかえて、大通りをひた走った。まずいことに、事情を知らない通りがかりの人々が誘拐だと騒ぎ立てて、私を追ってきた。人々の群れはどんどん膨れ上がり、やがて警官がその群れに加わった。しかし私は足を止めなかった。こんなことでこれまでの苦労を無にするわけにはいかない。私は飛ぶようにいくつもの通りを駆け抜けた。執念が疲れを吹き飛ばし、私はますます加速した。叫んだり怒鳴ったりしている追っ手の集団は、やがてはるか後方に見えなくなった。

 ふと我に返ると、いつの間にか夜だった。静けさだけが世界を支配している。私は人通りの少ない道を選んで歩き、自分のアパートへ帰りついた。ビニール袋をあけ、香りをもとの瓶に戻した。こうしてオパール色の液体は、再び馥郁たる香りを放つようになった。しかしどうしたことか、その香りは以前とは違って感じられた。しかも今となっては、あまり良い香りとは思えなかった。ただわずらわしいだけだった。美が時として簡単に失われてしまうのは、驚くべきことではないだろうか。だから私は瓶の中身を裏庭に捨て、次の日、また別の香水を買ったのである。

(挿絵:マリー・ローランサン「二人の少女 2」)

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