当時名声赫々たる考古学者であり、アマチュア・オーケストラ所属の比類なきチェロの名手でもあったマーチ博士の急激な衰弱死については、その謎めいた状況と未亡人の行き過ぎとも思える沈黙もあって、世の消息通の間にさまざまな憶測を呼んだ。私はこの一文をもって、その謎と憶測の氾濫にけりをつけたいと思う。ここに述べるのはすでに再婚されている未亡人から私が直接聞いたことだけであって、その信憑性には疑問を挟む余地がないことをお断りしておく。

 誰もが知っているように、19xx年は考古学にとって実り多き年だった。ペルー、メキシコ、アイスランドでそれぞれ新しい遺跡が発見され、また東ローマ帝国時代の住居についても斬新な新説が学会を席巻した。だからその年に遺跡調査団を率いてトルコへ向かったマーチ博士とその一行の間に、何かを予告するかのような格別の興奮と使命感の高揚が見られたとしても、何の不思議もない。調査団はさまざまな国籍の団員から成り立っていた―――アフリカ人の地質学者、中国系カナダ人のコンピューター技師、デンマーク人の心理学者、フランス人の考古学者、イギリス人の文化人類学者、日本人の細菌学者、フィリピン人の気象学者、アメリカ人とトルコ人の案内人と助手、などなど。発掘現場となる荒地に到着した調査団はすみやかにテントを広げ、キャンプの設営を終えた。そばには黄色く濁った河があり、まわりを黒い潅木の茂みが取り囲んでいた。マーチ博士率いる調査団は時間を無駄にせず、ただちに発掘作業を開始した。

 荒地は暑く、空気は埃っぽかった。黄色い太陽が容赦なく照りつけ、日中になると更に気温が上昇した。そこはめったに雨が降らない土地である上に、緑も少なかった。たまに雲が出て日を翳らせたと思うと激しい風が吹き、全員の顔を白く細かい砂で覆った。砂は顔ばかりでなく汗で体中にへばりつき、石膏みたいにかさかさに乾燥した。仕事がきつくてみんなの口数が少なくなると、マーチ博士は大声を上げて団員を叱咤し、あるいは冗談を飛ばし、士気を鼓舞しようと努めた。博士は大柄で、もじゃもじゃの赤みがかったあご鬚を生やし、学者というより昔の金鉱掘りを思わせる逞しい男だった。団員たちは彼の業績に敬意を払う以上に、彼の誠実な人柄を慕っていた。仕事が終わるとみんな揃ってシャワーを浴びてこびりついた砂を落とし、夜には熱いコーヒーにウォッカを入れて飲んだ。気晴らしにチェスやポーカーで遊ぶこともあったが、大抵の場合は疲れきった身体を毛布の中に横たえ、すばやく眠りに落ちた。

 やがて掘り下ろした穴が遺跡の一部に達すると、マーチ博士は地層の年代を測定し、四千年から四千六百年前との結論を下した。それを聞いて全員が拍手をした、まるで素晴らしいオーケストラの演奏を称えるように。年代もののシャンペンが開けられ、マーチ博士の顔に晴れ晴れとした笑いが浮かんだ。

 重要な遺跡が次々と掘り出されていく。石棺、柱、屋根の一部、壁画、台座、壷や甕、石像。そしてある日、調査団は奇妙な物体を掘り出した。それは中空になった銅製の器だったが、形状がきわめてユニークで、過去発掘されたどんなものとも似ていなかった。長さは5メートルほどで、彎曲しているために座りが悪く、空洞の両側に対になるようにしてそれぞれ12個の小さい穴が並んでいた。隊員達は首をひねり、この物体の用途について議論した。ある者は水甕ではないかと言い、またある者は王家専用のバスタブだと言った。イギリス人の文化人類学者は、鍵をかけることができる金庫の一種に違いないと主張した。しかし誰の仮説も、その独特の形状を合理的に説明することはできなかった。最後に団員達はマーチ博士を振り返った、彼がいつものようにエレガントな、洞察力あふれる仮説を披露することを期待しながら。しかし博士はただこう言っただけだった、よし、それじゃみんなで一晩ゆっくり考えてみようじゃないか。そしてそそくさと自室へと引き上げていった。博士らしからぬその振る舞いは、隊員たちを戸惑わせた。

 マーチ博士は仮説を持ち合わせていなかったわけではない。それどころか、彼はその物体を一目見た時から確信していた、これは楽器に違いないと。彼は著名な考古学者であると同時にアマチュアオーケストラ所属のチェロ奏者でもあった。彼の目はその物体のいかにも楽器らしい彎曲の具合を見て取ったし、また空洞の回りに位置する24個の穴は、この物体を弦楽器と考えることによってのみ合理的に説明され得ると洞察してもいた。しかしその途方もない大きさが彼を戸惑わせた。差し渡し5メートルもある楽器を人間が弾けるものだろうか。

 マーチ博士は自室の静寂の中に横たわったまま、ゆるやかに考古学的思索の深みへと身を沈めていった。24個の穴の配置、空洞の形、そして全体の形状から、演奏方法については見当がついた。しかし、もし博士の見立てが正しければ、この楽器を演奏したのは少なくとも身長8メートル以上の巨人以外あり得なかった。博士の眉間の皺は一層深く刻まれ、その唇はギュッと固く結ばれた。博士は自分に言い聞かせた、結論を出す前にあらゆる可能性を徹底的に検証してこそ真の考古学者なのだと。そしてこのような新しい、突飛ともいえる発見には、常に盲点もしくは死角が存在することを忘れてはならないと。たとえば演奏者は特殊な手袋を装着したかも知れない、あるいはボウのような特殊な道具を使ったかも知れない、あるいは、これは二人の人間が同時に操るための楽器だったのかも知れない。

 翌日から博士は作業部屋にこもりきりで検証作業に没頭した。しかし物体を仔細に観察するにつれ、先にあげたような可能性はことごとく退けられていった。その結果、マーチ博士は次のいずれかが真実であるはずだという結論に達した。

(1)演奏者は身長8メートルの巨大な人間であった。
(2)演奏者は器用な指先を持ち、十分に訓練された巨大な猩猩であった。
(3)演奏者は巨大な体躯を持つ宇宙からの訪問者であった。
(4)演奏者は巨大な人造人間であった。

 博士は何よりも論理を重んずる人間だったので、自らが導き出した結論の正しさにはいささかの疑いも挟まなかった。しかし、これを隊員に伝える勇気はなかった。まして、この仮説を学会に発表することは絶対に不可能と思わざるを得なかった。そんなことをしたら彼は学会始まって以来の笑いものとなってしまうだろう、人々は彼を狂人扱いし、彼と家族は世間からまともに扱ってもらえなくなるだろう。しばらくの逡巡の結果、彼はすべてを自分ひとりの胸の中におさめようと決心した。物体の正体については、データ不足のため不明ということにすればいい。

 かつてローマの哲学者はいった、世の中には信念への服従を絶対的に義務づけられている人々がいると。彼らは他人に対して、とりわけ自分に対して嘘をつくことができない。彼らの生命力と創造力は一にそこにかかっているため、嘘をつくことはその貴重な泉を枯らしてしまうことになる。そんなことをすれば彼らは生きる活力を失い、水を断たれたヒヤシンスのように萎れてしまうだろう。

 マーチ博士はそういう人間の一人だった。真理を口にすることを断念したのは生まれて初めての経験だった。何事もなかったかのように発掘作業を続けながら、マーチ博士の良心は彼を責め立てた。彼は真理の探究者としてこのような自らの小心を、保身のための怯懦を恥じた。彼の態度からはしだいに生来の陽気さが失われていった。その声からは張りがなくなり、子供のように生き生きと輝いていた目は霞がかかったようなグレーになった。頬が垂れ下がり、背中が曲がって身長が低くなった。そして彼の変貌とともに、調査団の雰囲気も変わっていった。団員たちの士気は低下し、手を抜くことを覚えた。ミスがあればすぐに他人のせいにしたため、不協和音と小さな諍いが日常茶飯事となった。しかしそのような嘆かわしい変化に対しても、マーチ博士は何の対策も講じなかった。やがて発掘作業は終わり、調査団は帰国した。

 マーチ博士を出迎えた妻のエイプリルは、夫の顔を見て驚きを禁じえなかった。数ヶ月前、若々しい生気に輝いていたあの壮健な男は一体どこへ行ってしまったのだろう。夫の顔には憔悴と疲労が、そしておそらくは年老いた男だけに見られる静かな諦念があった。彼の好物だった手作りアップルパイとロイヤルミルクティーを差し出しても、また夜になってヴィクトリア・シークレットで買ったランジェリーだけを身にまとって寝室に入っていっても、彼に生気を取り戻させることはできなかった。
「一体どうしたの?」とエイプリルは尋ねた。「発掘は成功だったんでしょう? 新聞はあなたと調査団への賞賛の言葉でいっぱいだわ」
「エイプリル」とマーチ博士は重い口を開いた。「私は自分の信念にもとることをした。それが何かは聞かないでくれ、しかしあれは私とお前を守るためだったのだ。私はお前を失うのが怖かったんだよ」
 夫が何を言っているのか分からなかったが、エイプリルは微笑みを浮かべて彼の背中に両手を回した。「心配いらないわ。あなたが私を失うことはないのよ、永久に」

 しかし事態はどんどん悪い方へと進んでいった。マーチ博士はベッドから起き上がれなくなった。頬がこけ、顔色が黒ずんだ。衰弱して食欲もなくなり、薄いスープを一日二回飲むだけだった。エイプリルが医者を呼ぶと、ドクターは首をふってこう言った。「ご主人の身体に異常はありません。おそらく精神的なことが原因でしょう、精神科医に見せた方がよろしいですね」
 精神科医を呼ぶとマーチ博士が暴れ始めたので、数人がかりで手足を押さえつけなければならなかった(精神科医は医者ではないというのがマーチ博士の持論だった)。診察の努力がすべて水泡に帰したあと、精神科医は憮然としてエイプリルに言った。「これでは手の施しようがありませんな」

 マーチ博士の衰弱は驚くほど急速に進行した。当時エイプリルを含めた周囲の人々には知る由もなかったが、彼の人生の歯車は決定的に狂い、もはや元に戻すことは不可能だったのだ。やがてマーチ博士の死が時間の問題であることは、誰の目にも明らかとなった。夫を心から愛していたエイプリルは毎朝目を覚ましてから2時間、ベッドの中でただ一人涙を流した。ある日、看護婦に呼ばれてマーチ博士の寝室に入っていったエイプリルに、博士は言った。「お前に言っておきたいことがあるんだ」
 窓の外には冬枯れのヨークシャーが広がり、空は青く澄んでいた。部屋の暖炉にはあかあかと火が燃え、その光に照らされたマーチ博士の顔は骸骨のように痩せ細っていた。博士は穏やかに続けた。「これまでどうしても言い出せなかった。どうか聞いておくれ、そして、私が少しでも心の重荷を取り除いて旅立てるように、力を貸しておくれ」
 エイプリルの手がそっと夫の手に重ねられた。マーチ博士は告白した、トルコで発掘した物体のこと、それについての仮説、仮説を自分の胸の中に封印したこと、笑いものになるのが怖かったこと、その他もろもろの事柄について。告白を終えた時、博士の顔は晴れやかだった。一方、エイプリルの顔は涙に濡れていた。「そんなことで、どうしてあなたは死ななければならないの?」
「許してくれ、愛しいエイプリルよ」とマーチ博士は優しく言った。「お前には分からないかも知れないが、真理にそむいた学者は生きてはいけないのだ。私は道を誤ったのだ。神よ、許し給え」

 こうしてマーチ博士は息を引き取った。その死に顔を見た人々は口々に、なんと安らかな表情だろうと感嘆した。そしてこう続けた、マーチ博士は自分で満足のいく人生を送ったに違いない、私たちもああありたいものだ、と。

 しかし、エイプリルは? そう、彼女にはこれらすべてのことがまったく理解できなかった。悲しみの中で彼女が理解したのはただ一つのことだけだった。葬儀を終えた後、彼女は屋敷を引き払い、使用人全員に暇を出し、南仏の田舎町に引っ越した。一年間喪に服し、その翌年、家具のセールスマンと知り合って婚約した。彼は大金持ちでも、ハンサムでも、スポーツマンでも、天才でも、有名人でもなかった。彼女が次の夫となるべき人物に求めたのは、百年以上昔のことに関心を持たないこと、ただそれだけだった。

(挿画:ロッソ・フィオレンティーノ「リュートを弾く天使」)

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