パリとフランス語の関係を女と香水の関係にたとえたのは、かつてぼくが懇意にしていた映画監督だった。彼は場違いなほど静謐で、悔恨と郷愁に満ちた忘れがたい恋愛映画を一つ撮ったが、その後どういうわけか二流の恐怖映画ばかり撮るようになり、やがて人々から忘れ去られてしまった。そうして過去の著名人という、生きながら亡者として語られる人々の仲間入りを果たしたわけだが、その時の彼の言葉だけはいまだにはっきりと覚えている。というのも、それは以前から常々ぼくが抱いていたけれども言葉にできなかったある印象を、彼独特の安っぽい気取りで包みこむことで、かえって的確に言い表しているような気がしたからだ。誰もが知っているように、女は香水をその身に振りかけることで香りと一体化し、男を幻惑する。パリという街もまた、この街に足を踏み入れた人ならば誰でも知っている通り、あのデリケートで秘蹟的なフランス語の響きで旅行者を幻惑する。そもそも喋り言葉としてのフランス語は他のどんな言語よりも香りに近い特質を持っていて、ほとんど香りの一種と考えた方がいいくらいなのだ。たとえば、それは漂い流れる性質を持っている。それは目に見えない。それは記憶と容易に結びつく。それは鼓膜よりむしろ鼻孔を刺激する。ちなみにこの会話を交わした時、ぼくと映画監督はモンパルナスの小さな酒場にいたけれども、ぼくたちのまわりにはフランス語と呼ばれる芳香が渦巻き、終始ぼくたちの鼻孔をくすぐり続けていたことを思い出す。

 ところでぼく自身の過去を思い返してみると、フランス語の響きがぼくに及ぼす影響にはいつもめざましいものがあった。その例を一つ挙げてみようと思うが、これがきわめて私的な、ぼくの感受性に全面的に依存する経験であることは分かっている。だからこれを普遍的な何かだと主張するつもりは毛頭ないが、この言語に頻繁に接する環境にいる人ならば、何かしら似たような経験があるんじゃないだろうか。当時ぼくはアメリカに住んでいた。西海岸の、雑然とした庭にパームツリーが植わった質素なアパートの四階に住み、学校に通っていた。そして、ここでは省くことにするごちゃごちゃと錯綜したなりゆきを経て、ぼくは大学の遠い関係者である一人のフランス人女性と知り合った。彼女は建築と映画の勉強をしていた。最初この二つの取り合わせが奇妙に思えたのは、ぼくが当時まだアメリカ文化というものを理解していなかった証左である。他の国では特殊な分野と見なされがちな映画という学問のジャンルは、ここアメリカ西海岸においては初級の算数と同じくらいありふれたもので、むしろあたり前過ぎて無個性と見なされる危険性すらある。ともあれその女性は建築と映画の勉強をしていて、フランス人であるにもかかわらずアメリカ人と変わらない流暢な英語を話した。非常に聡明な女性で、おそらくはその聡明さに感心するあまり、ぼくはたちまちこのフランス人女性を尊敬するようになり、そのかわり決して彼女を女性として見ることはできなくなった。断っておくが彼女は人並み以上の容姿に恵まれていたし、健康な、均整のとれた肉体の持ち主だった。ぼくの知っている男が数名、彼女にぞっこんだったことも知っている。けれどもぼくにとって彼女は無性の存在、性的な透明人間以外の何者でもなかった。おそらく彼女にとってのぼくも同じだったのだろう。ぼくたちの間にはただ心地よい友情の絆だけがすくすくと育っていった。

 彼女と知り合って数年後の感謝祭に、ぼくと彼女はある人の家で過し、その帰りに二人で学生向けのカフェに寄った。カフェは旅行者でごった返していて、隣のテーブルではフランス人の若い四人組が地図を広げてさかんに議論していた。その中の一人が、ぼくと向き合って座っていた彼女に下手な英語で何かを尋ねた。彼女は流暢なフランス語で答えを返し、それをきっかけに四人の若者たちと彼女の間で、ひとしきりうちとけた会話が交わされた。笑い声がはじけ、身振り手振りに熱がこもった。ぼくは一人だけ会話に加わらず、じっと彼女を眺めながら、母国語を話す彼女を見るのはこれが初めてだとぼんやり考えていた。それはひどく新鮮な経験で、彼女の声が別人のように聞こえた。フランス語を喋る彼女は別のペルソナを被っているのだ、と面白がってぼくは考えた。そしてその時の彼女は美しく、チャーミングに、つまり女性として非常に魅力的に見えることに気づいた。はっきり言うと、ぼくは彼女に惹きつけられた。その瞬間、おそらくぼくは彼女に恋をしていた。あまりにも唐突な変化だ。これはどうしたことだと、ぼくの中で常に目を光らせている皮肉な観察者が問いかけた。それはもちろん、彼女がフランス語を喋ったからだ、とぼくは答えた。明白で、議論の余地のないことだった。興味深いことにぼくの感情は、ありとあらゆる理性の強力な説得にもかかわらず、フランス語を喋る彼女と英語を喋る彼女は別人であると結論を下したらしい。彼女はぼくの目の前で別人に変わり、ぼくはその見知らぬ女性に惹きつけられたのだ。

 しかしもちろん、ぼくと彼女との間には何も起きなかった。隣のテーブルとの会話が終わると彼女はまたぼくの方に向き直り、流暢な英語で話を続けた。魔法の瞬間は過ぎ、彼女はまた透明人間に戻った。その後もずっと透明人間のままだ。けれどもあの一瞬の目覚しい変貌、そしてそれを引き起こしたフランス語の力の記憶は、ぼくの中にいつまでも残ることになった。彼女はまた、ぼくの中に建築物への興味を植え付けた人物でもあった。ぼくがフランスに住むと決まった時、彼女はパリの建築物に注目するようにと言った。「あなたが建築に興味がないことは知っているけど、建築の美の信奉者として言わずにはいられない。それに自分の一言が他人の人生を変えるかも知れないという考えに、私はいつも魅了されてきたの」
 この言葉がぼくの人生を曲げて建築家にしたというようなことはなく、またこれからもないだろうが、とにかくぼくがパリの建築物めぐりを始めたのはこの一言があったからだ。でなければ、ぼくは一生建築物などに興味を持つことはなかっただろう。フランスへ来てから彼女と連絡を取ったのはただの一度だけ、それも近況を知らせるカードのやりとりだけで、だから彼女がぼくの建築物めぐりのことを知っているはずはない。自分の一言がここまでぼくに影響を与えたとは夢にも思っていないはずだ。ひょっとしたらこれもまた、彼女が一瞬だけぼくに見せたあのペルソナ、フランス語を喋る幻の女のせいかも知れない。

 ところで一度だけ届いた彼女からのカードには、近々結婚しますとだけそっけない調子で書かれていた。相手はぼくの知らない男だった。カードの写真はアングルの有名な油彩画「泉」で、これは彼女の記憶力の良さとぼくへの気遣いを示すものであり、おそらくは、ぼくたちの友情の記念だった。ぼくはかつて彼女にこの絵に対する思い入れを語ったことがある。彼女はそれを覚えていて、ぼくへの最後の挨拶の同伴者にしたのだ。ぼくはすぐに返答のカードを出し、彼女の結婚に祝福のメッセージを送った、これがおそらく彼女への最後の手紙になるだろうと思いながら。他の男も同じだと思うが、ぼくは結婚した女性を相手に、それまでと変わることのない友情を維持できたためしがない。

 そんなわけでパリ滞在中、ぼくはありとあらゆる建築物をこの目で見て回った。役所、寺院、教会、礼拝堂、学校、劇場、美術館、博物館、図書館、駅、記念碑、橋、空港、銀行、倉庫、個人の邸宅や豪奢なアパート、店舗、高層ビルにいたるまで、見る価値があると思えるものすべて。そしてその中に、彼女が言うところの尽きることのない美を発見しようと努めた。こんな言い方をすると、まるでぼくにはそれらの美しさが分からなかったみたいに聞こえるかも知れないけれど、それは誤解である。ぼくは建築物めぐりを愉しんだ。それらの美しさを充分に堪能した。労力に見合うだけの報酬は受け取ったのである。ただぼくの心の中にはいつも、本当にこれですべてだろうかという疑念があった。彼女が言った尽きることのない美とは、本当にこれのことだろうか、それとももっと別の何かがあるのだろうか。ぼくは何か大事なものを見逃しているのではないだろうか。こうしてぼくはいつまでたっても、迷路をさまよっているようなもどかしさ、苛立ちを振り払うことができなかった。亡霊と鬼ごっこをしているようなものだった。それが存在するのかどうかも分からず、ぼくはただ何かを追いかけ続けていた。

 パリを去ることになった時に、心からこの都市に魅了されていたにもかかわらずどこか安堵する気持ちがあったのは、ひょっとしたらそのせいかも知れない。この町はぼくを幻惑し、鼓舞し、夢見心地にしたが、同時に不安にもした。かぐわしく致死的な香水の匂いを振りまくファム・ファタルのように、ぼくの魂を疲弊させた。結局ぼくがパリを去ることになったのは、自分の決断というより状況のしからしむるところだったが、そうでなければ、ぼくは決してこの都市と訣別する決心がつかなかっただろう。ぼくは友人たちに別れを告げ、アパートを解約し、飛行機のチケットを予約し、荷物をまとめた。そして明日は出発という日になって突然、見ておくべき建築物をひとつ見忘れていたことを思い出した。それは市の外れにある小さな図書館で、それほど有名ではなかったが、様式が珍しいので建築物に興味があるなら一見の価値があると知人が教えてくれたのだ。もうずいぶん前のことだ。いつか機会があれば行ってみたいとずっと思いながら、忙しさにかまけてすっかり忘れていた。明日に出発を控えていつもよりセンチメンタルな気分になっていたぼくは、これを逃すと一生後悔するぞ、と囁きかける声を聞いた。ぼくはデジタルカメラを持って電車に乗り、その地区まで出かけていった。

 図書館は緑豊かな一郭にあり、思ったよりも大きかった。中に入ると高い窓から射し込む白い午後の光がまぶしくて、書架が立ち並ぶ薄暗い書庫と強いコントラストを見せていた。疑いもなく美しい建物だった。静けさがすべてを圧倒している。人々はみんな影のようだ。ぼくはあちこち歩き回り、迷路じみた狭い廊下をゆっくりとカウンターの方へと歩いていった。カウンターの中では数人の図書館職員が目録の整理みたいな仕事にいそしんでいる。ふとその中の一人、はたちそこそこか、ひょっとしたらまだ十代かも知れないその若い女性に目を止めた時、ぼくは思わず足を止めて心の中で叫んだ。「泉」だ、彼女は「泉」だ、と。

 金髪と、まだあどけなさを残した顔立ち、汚れを知らず、その無垢がどこか寂しさにつながっているような純潔の空気、そして何かを見ているというより瞑想しているかのような瞳。瓜二つだった、まるで絵の中からそのまま抜け出してきたかのように。もちろん、服を着ているということ以外は。ぼくがアングルの「泉」に特別な思い入れを持っているのは先に述べたが、その由来はぼくが子供の頃に遡る。当時ぼくの両親は毎年夏になると幼かったぼくを連れて、一週間ほど祖父の家に滞在した。祖父の古い屋敷には昔風の書斎があり、そこの本棚には世界美術全集が揃っていた。ぼくはよくその場所で時間をつぶしたものだが、ある時美術全集をぱらぱらめくっていて、偶然アングルの「泉」を発見した。その時の甘美な衝撃をどう表現すればよいのか、ぼくは途方に暮れてしまう。絵の中央には全裸の少女が腰をくねらせて立ち、左肩の上にさかさまにした水甕を担いでいる。水甕の口からは透明な帯のような水流が落ちている。少女の顔は正面を向き、かすかに開いた口はどことなく微笑むようだ。

 ぼくはたちまちこの絵と恋に落ちた。この絵に描かれている少女がぼくの初恋の相手となり、ぼくの白昼の夢想を支配するようになった。幼いぼくに初めて官能のうずきを教えてくれたのも彼女だった(この娘が全裸であることを忘れてはならない)。それからというもの、ぼくは時間を見つけては書斎に忍び込み、こっそりこの画集を開き、陶然となって、飽きることなく「泉」を眺めた。祖父の家に滞在している間は、それが欠かせない日課となった。翌年も、またその翌年も同じだった。どれくらいの間この奇妙な恋が続いたのかは、はっきり覚えていない。誰もが知っているように、少年時代のひと夏は永遠に等しい。やがて祖父がなくなり、祖父の家を訪問する習慣も終わりを告げた。その頃にはぼくの情熱も下火になっていたが、この絵に対する特別な思い入れがぼくの中から消えていくことはなかった。

 ここで再び時計の針を進め、パリのあの図書館に戻ることにしよう。ぼくが驚きに打たれ、彫像のように立ちすくんでいるあの一点まで。ぼくはその女性から目が離せない。大昔愛した女性、今はもうアルバムの一ページに埋もれてしまった恋人が昔のままの姿で、突然目の前に現れたかのような衝撃、いや、そうではない、かつて夢の中で後ろめたい思いとともにこっそり創り上げた架空の恋人が、夢を抜け出し生身の女となって目の前に現れた、それくらいの衝撃だった。彼女はぼくの視線に気づかなかった。ぼくは少し落ち着きを取り戻し、もっと近くに寄って、彼女に気づかれないよう注意しながらその顔を観察した。目の錯覚ではなかった。強調しておきたいのは、ぼくは充分に近い距離で、時間をかけて彼女を観察したということだ。ぼくの思いこみだったとか、目の錯覚だったということはありえない。

 ところでその時のぼくの気持ちは、絶望の一言だった。ぼくは明日この国に別れを告げようとしている。もう二度とこの場所に来ることはなく、二度と彼女に会うことはできない。こんな残酷なことがあるだろうか。混乱と悲しみの中で、ぼくは自分が何をしているのかも分からないまま、彼女に向けたデジタルカメラのシャッターを切っていた。一枚、二枚、三枚。ふと我に返って、自分がしたことの無謀さに身がすくむ思いを味わった。近頃では、こうした行為がどれほど厄介な、不面目な事態を招きうるか誰でも知っている。幸い、ぼくの行動に気づいた者は一人もいなかった。やましさに動転していたぼくはすぐに踵を返し、足早にその場を立ち去った。彼女に最後の一瞥をくれることもせずに。

 こうしてぼくは東京に戻ってきた。帰国してしばらくは忙しい日々が続いたために、写真を整理しようと思いたったのは一ヶ月以上もたってからだった。自宅のパソコンにデジタルカメラを接続して写真を取り込み、ファイルを開き、モニターに写った写真を一枚一枚眺めた。あの写真まで来た時、最初ぼくは自分の目がどうかしたのかと思った。次に写真をとばしたか、あるいは間違って消してしまったのかと思った。けれども何度も写真を見返し、記憶を反芻した後で、ようやく避けがたい結論を受け入れた。つまりあの時ぼくが見た「泉」そっくりの女性はそこには影も形もなく、その代わりまったくの別人が、おなじ年頃の、同じ背格好の、同じ服を着ているが顔は似ても似つかない他の女性が、そこに映っていることを認めたのである。まるで芝居の代役のように、記憶の中の彼女とそっくり同じポーズをとって。その女性の顔には、どんな意味においても「泉」と共通するものはなかった。写真は三枚あったが、どれも同じだった。ぼくはすっかり狐につままれた気分になってしまった。

 やっぱり、ただの見間違いだったんだよと、あなたは言うかも知れない。あるいは、夢でも見ていたんだよと。けれどもそうでないことをぼくは知っている。あの時彼女の顔を間近に観察し、確認したことをはっきり覚えている。とするならば、ぼくは再び幻の女を見たに違いない。この幻の女は、ぼくの人生における最初の幻の女と一枚の絵葉書によってつながっている。しかし、これもまたフランス語という香りのなせるわざなのかどうかは、ぼくには判然としない。

(挿画:アングル「泉」)

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