その頃、ぼくが働くオフィスは臨海副都心に立つビルの高層階にあった。ビルはまだ新しく、主要な部分のほとんどがガラスでできていた。遠くから眺めるとそれは薄青い蜃気楼みたいに美しかったし、同時に幻想的と言っていいくらい現実ばなれして見えたのだけれど、近づいて間近に見上げるとそうした審美的な陶酔はたちまち消え去り、不安と恐怖感がそれにとって変わった。ぼくは高所恐怖症だったのだ。最悪なのはエレベーターで、その大部分が透明なガラスでできているこのガラス製のエレベーターに乗り、急上昇あるいは急降下しながら、乗客たちはミニチュアのような道路や橋、広場、森、遊歩道、公園、遊園地の観覧車、そこで動く米粒のような人や車を眺めることができた。時々は空を飛んでいる気分にもなれた。しかし、たとえそれを楽しいと思う人たちがどこかにいたとしても、ぼくにとっては悪夢以外の何物でもなかった。日光が太陽からじかに突き刺さってくるほど残酷に透き通った壁から、できるだけ体を遠ざけ、視覚を遮ってくれる堅牢な金属性のドアだけをしっかりと見つめ、膝が震え出さないよう全身に力をこめていなければならなかった。

 このエレベーターにはエレベーターガールが乗っていた。おとぎの国からアルバイトにやってきた妖精のような、あのエレベーターガールたち。彼女たちはみんな春の始まりを思わせる薄緑色の制服を着て、しみ一つない白い手袋をはめ、まるい鍔のついた帽子をかぶり、昔のアメリカ映画に出てくる女学生たちみたいに黒いストッキングをはいていた。四六時中笑顔をたやさず、歌うような声で喋り、背筋をまっすぐにのばして郵便ポストみたいに直立していた。もちろん、エレベーターの中でいつも恐怖心と戦っているぼくには、彼女たちをゆっくり観察する余裕などなかった。しかし初めてそのエレベーターガールを見た時には、ぼくの心臓の中で誰かがマッチ棒を振りかざしてそこに永遠の火を灯したような気がした。彼女にはどことなく印象派の絵に描かれたバレリーナみたいな感じがあった。小柄ながら完璧に均整のとれた体と、聡明さと愛らしさが溶け込んだ柔らかい顔立ち。これ以上説明の必要があるだろうか。ぼくは彼女のこと以外何も考えられなくなり、仕事中も手を止めて彼女の顔、立ち姿、仕草、そしてその声を空想上のスクリーンに繰り返し投影するようになった。彼女と話をしたい、それがぼくの望みだった。静かな場所で差し向かいにすわり、コーヒーを飲み、月光浴をする河馬のように彼女の視線を全身に浴びることができたらどんなにいいだろう。もちろん、そのためには彼女をデートに誘わなければならない。ここに大きな障害があった。彼女とぼくとの接点は今のところあのガラス製のエレベーターの中にしかない、しかしぼくはエレベーターの中ではほぼ心神喪失状態にあり、口をきくことすらできない。どうすればよいか三日三晩考え、手紙を書いて渡すしかないというありきたりの結論に達した。

 行動は迅速に、それがぼくのモットーだ。ただちに、特別に高級でロマンティックな感じのする便箋を買ってきて、なけなしの文才を傾けて愛の告白を書き綴った。苦労の甲斐あって自分でもほれぼれするような傑作が出来上がった。物憂さを漂わせたブルーのインクでそれを清書し、高貴なラベンダーの香りをしみこませた若草色の封筒に入れる。そしてそれを、拳銃に弾薬を装填するガンマンよろしく内ポケットにしのばせた。もちろん、手紙を渡すのは彼女と二人きりの時でなければならない。いかに苦痛と困難を伴おうとも、ぼくはこの仕事を最後までやり遂げる決心を固めていた。ひっきりなしにエレベーターに乗って上昇と下降を繰り返し、めまいと嘔吐感で足元がおぼつかなくなってきた頃、ようやく彼女と二人きりになれるチャンスが訪れた。それは時計の針がちょうど午後2時を回った時刻、ビル全体が永遠の午睡を思わせる荘厳な静寂の中に沈み込む時間帯のことだった。

 滑るようにドアが閉まり、エレベーターが音もなく下降を始めた。ぼくと彼女は無言で向き合ったまま、晴れ渡った空間の中をどこまでも降りていった。青ざめた日光だけがぼくたちの間を隔てていた。彼女はにっこりとぼくに笑いかけたが、そこにはひそやかな親密さが宿っているように思われた。ここでぼくと出会えたのは偶然ではなく、何かしら特別な理由があるのですよとそっと打ち明けるみたいに。ぼくはぼくと彼女との間に横たわる距離を縮めるために、一歩足を踏み出そうとした。しかし彼女の背後には透明なガラスの壁があり、その向こう側から果てしない蒼穹がぼくを威嚇していた。恐怖が全身を締めつけ、気が遠くなった。ぼくは勇気をふりしぼって内ポケットから手紙を取り出し、彼女に差し出した。彼女の目が驚きで見開かれ、白い手袋に包まれた指が手紙をつまんだ。と、その瞬間エレベーターが止まり、開いたドアからネクタイを締めた人々の群れと喧騒とがどっとなだれ込んできた。ぼくはすばやくエレベーターを降りて姿を消した。

 次に彼女のエレベーターに乗るのは三日後と決めたのは、それだけあれば彼女が心を決めるのに充分だろうと思ったからだ。苦悩と期待に満ちた三日間が過ぎ、ぼくは再び自らを彼女のエレベーターの中に見出していた。そして彼女がぼくの手にこっそり小さな紙片を忍び込ませた時、ぼくの喜びは、その陶酔と夢見心地はいかばかりだっただろう。ぼくの魂はシャンパンの泡のようにざわめく幸福感を引き連れて肉体から軽々と抜け出し、さらにビルの窓からも飛び出して、地平線とはるかな飛行機雲の間を昇ったり降りたりした。紙片はもちろん、彼女からの返事に違いなかった。ぼくの苦労のすべては報われたのである。返事が承諾か拒絶かはこの際問題ではなかった。彼女がこうして手紙を返してくれただけでぼくは満足だった。とはいえ、ぼくはすぐにひとりきりになれる場所に行ってその手紙を開いた。そこには華奢でありながらきわめて音楽的な、まるでモーツァルトの楽譜を思わせる筆跡で待ち合わせの場所と時刻が記されていた。

 その日、ぼくはとびきり上等の淡いベージュのスーツを着て、イタリア製のネクタイを締め、顔にはどっさりコロンを振りかけて約束の場所へと出かけていった。それは陽光でいっぱいに充たされた、大きな天窓のある、緑溢れるカフェだった。壁には蔦が這い、石でできたカウンターの上にはところ狭しとサボテンの鉢が並んでいた。ぼくはフロアの中央にある円形のテーブルにすわり、香りの強いハーブティーを注文して彼女を待った。目の前に立ち上る湯気を見つめながら、ぼくは彼女に何と言おうかと考えた。何と言えば彼女にぼくのこの気持ちが伝わるだろうかと、果てしなく思慮をめぐらせた。ぼくのささやかな思慮はメリーゴーラウンドのように行ったり来たりし、天窓からさしこむ日の光の中に漂い流れた。気がつくと、テーブルの横に人影が立っていた。それが彼女だった。肩のあたりにオーガンジーをあしらったピンク色のワンピースドレスに身を包んだ彼女は黒いハンドバックを両手で持ち、すんなりした足を揃えて、舞台に立つ踊り子のようにぼくの方を向いていた。ところがぼくが彼女を迎えようとして立ち上がった瞬間、予想もしなかったことが起きた。目がくらみ、全身が冷たくなり、足元の床がすっぽ抜けてどこまでも落下していくような感覚に襲われた。つまりそれは、彼女の顔を見たことによる条件反射だった。その事態にぼくの身体は耐えることができなかった。ひとたまりもなく椅子から転げ落ち、ぼくは失神した。

 あとで知ったことだが、ぼくはこの時きっかり三十分だけ意識をなくしていたらしい。ぼくがものも言わずに倒れ込んだ後、店の人たちが四人がかりでぼくを目立たない場所にあるソファーの上に運んだ。死んだようにぐったり横たわっているぼくのそばに、彼女はずっとつきそっていた。やがてぼくは目をさまし、むっくりとソファーの上で体を起こし、迷子になった子供の戸惑いをもってあたりを見回した。こんな時によくあるように、ぼくは失神する前の記憶をなくしていたのである。自分がどこにいるのかすら分からなかった。そのうち、すぐ横でじっとぼくの顔をのぞきこんでいる彼女に気づいた。すべての記憶が戻り、同時にあの、足元の床がすっぽ抜けてどこまでも落ちていく感覚が再び押し寄せてきた。つまりこのようにして、ぼくは彼女と形而上学的な落下の間を、永久運動の振り子みたいに際限なく行き来するという罠に捕らえられたのだ。

 「落ちる!」絶望にかられてぼくは叫んだ。そして高いところから落下しようとする人がみんなそうするように、彼女に向かって両腕を差し伸べた。すると彼女がすばやく手を伸ばして、ぼくの両手を掴んだ。そしてすごい力でぼくの腕を引っ張り、その勢いでテニスボールのように跳ね返ったぼくの身体をしっかりと抱きとめた。そして叫んだ、大丈夫、あなたは落ちません!

 あまりのことに茫然としたまま、ぼくはじっと彼女に抱きかかえられていたのだったが、ついに落下は起きなかった。彼女の匂いが、柔らかさが、あるいはひょっとしたらその力強い言葉が、ぼくを形而上学的な落下からつなぎ止めたのである(付け加えるならば、この日以降ぼくは二度と高所恐怖症に悩まされることはなかった)。ぼくはその時のことをよく覚えている。店中の客がぼくたちを注視していた。彼女の顔がぼくの顔の驚くほど近くにあった。その両方の瞳の真ん中にぼくの顔が映っていた。ぼくは長い間、そこから目をそらすことができなかった。つまりこれが、ぼくと妻との出会いだった。

(挿画:デュフィ「モーツアルトにささぐ」)

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